宇部、美祢、山陽小野田の発展を支えた3人の翁。
縁の地や人を訪ね、いつまでも敬愛され続ける彼等の素顔に迫るとともに、その功績や高い志を学ぶ旅です。
笠井順八翁(1835~1919)
| 萩藩御船手組の有田甚平の三男として萩城下で生まれる。7歳のとき、萩藩士笠井英之進の養子となる。1873年山口県勧業局主任。1877年以降は県の役職を辞して旧藩士族の授産事業に尽力し、1881年民営としてはじめて「小野田セメント製造株式会社(現、太平洋セメント)」設立を認められ、1883年、工場を厚狭郡西須恵村(現、山陽小野田市)小野田新開作に建設。現在の山陽小野田市発展の支柱となった。 | ![]() |
渡邊祐策翁(1864~1934)
| 宇部の領主福原氏の家臣渡邊恭輔の次男として、厚狭郡小串(現、宇部市)島で生まれる。1897年沖ノ山炭鉱(現、宇部興産グループの前身)頭取として、開坑に成功し、宇部経済界の中心人物となる。多くの炭鉱経営者が石炭の販売に重点を置き、やがて経営不振に陥ったのに対し、渡邊は石炭を中心に関連産業の育成と人口増加に伴う教育・厚生施設の充実に力をそそぎ、宇部発展の基礎を築いた。 | ![]() |
本間俊平翁(1873~1948)
| 新潟県西蒲原郡岩室村で生まれる。1894年大倉土木組に入社。幹部の一人から感化を受け1897年東京の霊南坂教会で牧師留岡幸助から洗礼を受ける。1902年家族とともに秋吉に移り、経塚山の大理石採掘所を設立して、出獄者、非行少年らの更生指導にあたる。森鴎外の短編「鎚一下」のモデルとなり、玉川学園の小原国芳の思想にも大きな感化を与えた。 |
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