近代日本の草創期に生まれ、今なお「翁」と言われ故郷の人々から敬愛されている先人たちがいます。
彼等は、地域のため、国のため、そして人のためにと様々な事業を興し、この地域の都市基盤の整備や生活の質の向上に貢献しました。そして彼等のDNA は、現在もこの地に操業し続ける企業やその従業員、そして市民にも受け継がれ、私たちを地域の発展や豊かな生活環境の創造へと取り組ませています。
これまでその取組を支え続けたのが、石炭、粘土、石灰石、大理石などの豊かな天然資源でした。
現在さらに「サステナブル(持続可能)な社会」を創り上げていくことが、21世紀に生きる私たちに課せられた大きな課題となっており、国連においてもSDGsの達成にむけた基準が示されています。この地域の人々が長きにわたり営んできた自然との生活、そして産業との共生の姿を学ぶことは、このことを解決に導く大きなヒントになるのではないかと思います。
それが私共の提案する「CSR ツーリズム」です。どうかじっくりと味わってください。
宇部・美祢・山陽小野田産業観光推進協議会
宇部の領主福原氏の家臣渡邊恭輔の次男として、厚狭郡小串(現、宇部市)島で生まれる。1897年沖ノ山炭鉱(現、宇部興産グループの前身)頭取として、開坑に成功し、宇部経済界の中心人物となる。多くの炭鉱経営者が石炭の販売に重点を置き、やがて経営不振に陥ったのに対し、渡邊は石炭を中心に関連産業の育成と人口増加に伴う教育、厚生施設の充実に力をそそぎ、宇部発展の基礎を築いた。 | ![]() |
![]() | 新潟県三島郡間瀬村で生まれる。1894年大倉土木組に入社。幹部の一人から感化を受け、1897年東京の霊南坂教会で牧師留岡幸助から洗礼を受ける。その後、宮内省東宮御所造営局現業課兼監材課に奉職することとなり、山口県秋吉村での大理石の石質検査の命を受けるが、官庁をやめ長門大理石採掘所を設立し、出獄者、不良者達を雇い更生の指導にもあたる。波乱万丈の人生を歩みながら、地元に溶け込むだけでなく、人や産業を牽引する優しさと力強さを持ち、秋吉の地域に大きな足跡を残していった。 |
萩藩御船手組の有田甚平の三男として萩城下で生まれる。7歳のとき、萩藩士笠井英之進の養子となる。1873年山口県勧業局主任。1877年以降は県の役職を辞して旧藩士族の授産事業に尽力し、1881年民営としてはじめて「小野田セメント製造株式会社(現、太平洋セメント)」設立を認められ、1883年、工場を厚狭郡西須恵村(現、山陽小野田市)小野田新開作に建設。現在の山陽小野田市発展の支柱となった。 | ![]() |
宇部・美祢・山陽小野田産業観光推進協議会は、「産業観光」の総合的かつ効果的な推進による宇部・美祢・山陽小野田地域の振興を図ることを目的として、地元の経済団体、企業、市民グループ並びに国・県・市の行政機関が共同で設置した任意団体です。
「ご当地ならではの旅づくり」を担う「着地型エージェント組織」の育成を目指して活動しています。